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どにかかわる旅費、家事援助や新生児誕生にともなう必要な経費をまかなうことであった(Myrdal.1944)。母親現金給付は1955年、妊娠初期に就労する女性に対する傷病休業付加手当金給付を内容とする母親保険に発展した。この付加手当金は、就労女性の所得喪失に対して子どもの誕生後最高6か月間、支払われる有給育児休暇手当金を意味するものであった。しかし、1971年の国の社会保険局の調査によって、37%の母親が受給権利を欠き、さらに13%が非常に低い給付レベルの被保険者であることが明らかにされた。つまり、13%が医療保険に加入していても、妊娠初期に就労しなかった母親に対しては、子どもの誕生から傷病手当金一定額給付180日間分に相当する一時金のみが給付されたからである(SOU 1972:34)。
(両)親保険の導入とその後の発展は、従来の母親保険と比較して大きな原則的変革を意味するものであった。その最も重要なものは、父親も母親と同じ条件で保険利用の法的権利を有することである。また、とくに就学前の子どもをもつ母親就労が増加するという有子世帯の状況変化にあわせて、給付条件が定められたことも特徴とするところである(SOU 1982:36)。1962年から1981年にかけて、0−6歳児の母親の就労率は34%から79%に増加する反面、合計特殊出生率は2.2から1.7に低下した(Hoem&Hoem,1996)。家族政策委員会が(両)親保険導入にあたり出発点としたのが、多くの幼児をもつ家庭の両方の親が就労を希望するという現実であった。また、委員会によれば、両方の親に就労の可能性を保障することが有子世帯に対する最高の経済的援助であった。子どもが生まれるあるいは病気になった時には、養育や介護のために、どちらかの親が家庭にとどまる必要があるというのが、委員会の見解でもあった(SOU 1982:36)。したがって、(両)親保険における育児ならびに介護休暇手当金は就業所得喪失保障の原則に基づき、必要とする時に給付される形をとる。
(両)親保険の意図するもうひとつの基本的な考えは、男女平等の促進をはかることにある。保険の利用(育児のためにどちらの親がどのくらいの期間家庭に留まるか)に関しては、それぞれの家庭の親自身が決定するように構成されるものである。1970年代の家族政策は、なによりも親に対して就労と家庭が両立しやすいように援助することに努力が向けられたといえ、それによって父親の子どもに対する責任が以前にもまして強調されることになった(SOU 1982:36)。
(両)親保険は徐々にその内容を発展させていった保険である。1974年当初の(両)親保険は、育児休暇手当金と病気の子どもを介護する介護手当金のふたつによって構成されるものであった。育児休暇手当金は、基本的に親白身の傷病休業手当金と同額が180日間給付された(SOU 1982:36)。また、病気の子どものための介護休暇には、傷病休業手当金が一人の子どもにつき年間最高10日間支払われるというものであった(SOU 1978:39)。また、労働市場に十分足場を確保していない親に対しては、一日25クローネをギャランティ・レベル(保証水準)とする一律額手当金が同時に導入された。保証水準の導入は、被保険者として比較的弱い立場にあるグループに対して、子どもの誕生にともないよりよい基本的所得保障を意味するもので

 

 

 

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